ユサブルコラム

入れ子になった風景(バリ島-その2)




現実からズレていく錯覚


 バリ島では、わざわざ名の知れた景勝地に出かけなくても(有名なビューポイントや観光地ももちろんすばらしいが)、そこかしこでとても美しい風景と出合うことができる。とくに山あいの道で急に視界が開けたときなど、思わずバイクを止めて見入ってしまうほどの、緑の濃淡に彩られた絶景が広がる。バリは、山あり谷ありで起伏の激しい地形だが、開けた場所に立つと想像以上に見晴らしがいい。遥か彼方まで続く椰子の森。そのなかで見事に造形されたライステラス(棚田)。森を横切りたなびく雲。そんな風景をボーッと眺めていると、ただただわけもなく「きれいだなぁ……」と思う。そしていつまでもその場所から離れられないような気怠い陶酔に包まれる。

 ところがこの風景、見続けていると妙な気分にとらわれるのだ。ただ“美しい”だけではない、現実からズレていくような不思議な錯覚。これは、他の人にはどうかわからないし、そんなふうに感じるのはひょっとすると少数派かもしれないが、たとえば、山あいの風景を見ているはずなのに、その視線の先に海が見えてしまうことがある。

幻を見せる景色の重なり


 写真を見てほしい。……と言っておいて恐縮だが、この写真では錯覚する“感じ”はリアルには伝わらないと思うし、この写真自体、ガツンと“それ”を感じたときに撮ったものではないので、ただの風景にしか見えないかもしれない。そうだったらごめんなさい、と先に謝っておくが、しかし私は嘘を言っているつもりはない。……実際にこのような場所に立ったとき、直感的に彼方の海が見える気がするのだ。実際には、向いている方角にあるのは山なのだが。

 この錯覚はなぜ起こるのだろう。彼方まで見渡せるので地形が下がって見えるため、その先に海を連想するのかもしれない。また、雲の感じが海上にかかる雲っぽく見えるからかも……。だが、そういうことだけではないようにも思う。きっとそうした風景は、実際に見えているものと本来は見えないもの(時間や記憶の残像など)が幾層にも重なり合った入れ子になっていて、なにかの拍子にそれらが透けて重なり、ひとつの地平として見えるような錯覚が起こるのではないか。うまく言えないが、風景のなかに、過去と現在を現実のものとして同時に見ているような感じがするのだ。

 これはほんの一例だが、開かれた風景でありながら幾重にも重なって見える実体の連鎖、または森のなかの遠近法を超越したような空間の密度。そうしたバリの姿は、バリにいると、不意に、そのくせ頻繁に、気づかされるし、また、バリの絵画や音楽にも色濃く反映されていると思う。たとえば、バトゥアンスタイルと呼ばれるバリの絵には、そうした空間の重層感がとくに顕著に表されている。または、バリを心底愛したヴァルター・シュピースの絵を見てもいい。彼の描いた「風景とその子どもたち」「椰子の木陰から」などといった晩年の作品(といっても彼は47歳の若さで亡くなったのだが)は、光と陰で空間を分けながら、通常の遠近感のなかに収まりきらずに重なって見えるバリの風景を、まったく違和感のない入れ子状態で描ききっている。

離れがたい気持ち


 またガムランが奏でる音楽も、同様にバリの入れ子構造を表している。あの超人的に速いパッセージの連なりは、対になる「コテカン」という独特な奏法によって可能になっているのだが、これまで私は、2人でひとつのメロディーを分け合って弾くことで現実離れした疾走感を生み出し、曲を完成させていると納得していた。だが、風景の見え方に習うなら逆なのかもしれない。曲の完成型から分解してコテカンのパートに別れているのではなく、それぞれに独立したメロディーがあり、それらが絶妙の間隔で組み合わさって聞こえることで、まったく別のメロディー(=曲の完成型)が姿を表す。まあ、どちらにせよ行われていることは同じで、解釈の違いと言ってしまえばそれまでだが、それでも私が大切に思うのは、バリにおいては現象は結果であり、それぞれの世界は厳然とそこにあるからこそ、それらは折り重なった空間としてギュッと圧縮されて、「一枚の絵(または曲)=現実」になっているのではないか、ということだ。

 ものすごく奥行きがあるもの、異質のもの、本来は同居しないもの、などを一気に一瞬で、同じ地平に同じ強さで空間化して、それをリアルに見せてしまう感じ。それがバリなのかもしれない。たとえばそれは、バリ人の「善と悪、どちらもあって、しかしその戦いに決着はつかない」といった世界観とも関係していそうな気がする。前回書いたチャナン(お供え)も、神様や精霊だけでなく悪霊にも供えているくらいなのだから。そしてこの不思議にしてリアルな入れ子の感覚が、私にとって今だバリに対する離れがたい興味を持ち続ける錨になっているのではないかと思う。
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